「例えばベートーヴェンの第九は自分にとってすごく意味のあるものだったけれど、いま僕の中で価値が変わってしまいました。あの第九でさえ、もしかしたら今の時代にはまったく効き目がないのかもしれないって思えてきて。
今は人となにかを一緒に歌うという行為がだめなわけでしょう。それが人の命を奪うことにつながっていくかもしれない。そういう時代に、第九とか、バッハのカンタータとかでもそうですけれど、合唱や人間が歌うっていう行為自体、危険だし色あせて見えますよね。」 これは先ほど読んだ記事からの引用だ。
これには目から鱗だった。 詳しくは前後を読んでみてほしい。 こんなぶっとんだ言葉を堂々と語っているのは権代敦彦氏である。彼は私が浪人中コンクールで3位でもらったとき1位に君臨していた。その後私は現代音楽というかクラシックからかなり遠かったが、そのせいで名前はよく覚えていたのである。彼の合唱曲や声を使ったものが私はズバ抜けて好きでそのセンスや手法に憧れを持ってきた。 その彼がサラりと言ってる。 ここのところコロナで音楽業界は困窮しているわけで、特に声は合唱は敵視されているというか本当に密で唾飛ぶので危険なのであらゆる気を遣う。私もずっとアンサンブルプラネタに関わっているのでとてもその辺を意識してきた。だが、
そもそも「色褪せる」とバッサリ。
何かようやくスッキリした気分である。そう時代にそぐわない音楽はやはり「色褪せる」ものだ。無理は心に音に現れる。 あと、これも私はずっと思っていたことだが、 「そもそもみんなで集まって神をたたえていく必要があるのか、とかね。礼拝の形式とかもね。」とサラり。(彼は敬虔なクリスチャン) このみんなで集まって神を讃えるというのはそのまま音楽のコンサートにも置き換えられる。ロックのバンドが配信とかやっぱり嫌だなあと思う。だからやはり彼らは神のように崇められ扇動してほしい。だがそうでない音楽もたくさんある。 有効なもの、必要とされているものがその時代限定で莫大に効き目があってそれを後ほど「芸術」とよんでいるのかもしれない。もっと言えば「芸術」と言われ崇められていたものも今効力はないものがたくさんある。もはや時代は個々に向かっているわけでそれは人それぞれだろうから選択すればいいのだろう。
さて、、 最近自分の作風が変わってきたよなあ、、と実は嘆いていた。前みたいのも作りたい。
が、しかし今を生きているのだからしょうがないか、ふとそう思えてきたのであった。まず自分に効き目のないものは作れないぞ、と。
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