山手線など人が頻繁に乗り降りする電車でジっと言葉を音として聞こうと訓練のように脳を麻痺させてひたすら聞くことがある。しかし、日本語は否応なしに意味を持って音だけになかなかならない。英語圏に行けば若干音に近くなるが知っている単語が邪魔をする。そんなときタモリは見事にデタラメドイツ語でバスガイドをこなし、デタラメフランス語でギャルソンをこなしてた。それこそ私の願っている音だけの言語だ。言語ではないのにドイツ語よりドイツ語らしく、まったく意味がないのにしっかり意図が伝わる。あれは衝撃的だった。いや、タモリが天才なだけか。。
言語としてのフランス語を知らない頃聴いてたあのフワっとしたフレンチポップスの歌詞が私の最初のフランス語の魅力であって意味を持ったとたんその境地に達せない。なんだ、学ぶんじゃなかった。それは絶対音感が染み付いて「ド」が「ド」以外で聞けなくなってしまった悲しさと似ていた。ドに近いドでは音まで「ド」になってしまう。
顔ではないものも顔に見えてしまう幽霊と一緒じゃないか。
歌っててただ「ha〜〜〜、、」っと息半分の音がそこに欲しいけど「ha〜〜〜ろ」と「ろ」がくっついた途端に「Hello」?と聞こえ始める。喉の奥でルル、、とか鳴ってしまった音が録音されただけで「春」?と、自分の脳の中で最上部にあるよく知っている言葉に自分の意図する意識とは関係なく磁石のようにピタっと結びついてしまう。 わ、、マズいな、、、「Hello」なんてここにいらないのに、じゃあこの録音却下か。と、すごく上手に歌えたのに言葉に乗っ取られたせいで私が引き下がる。デタラメカキアゲ語も容易ではない。世に確固たる位置を得ているメジャーな言葉には勝つことができない。
そうやって言葉に私は負け、「しゃあない歌詞でもつけるか」と今度は言葉の力を借りて感情をそこにうまく嵌める作業にあけくれる。毎度言葉との戦いだ。ただ、運良くハマってメジャー言葉を操る事ができれば歌詞とて魔力を持って私の感情を際限なく増幅してくれる。 言葉無し財テク無縁のエコな自給自足か、言葉投資でハイリスクハイリターンか、。。
佐佐木實の作り出す「イ」
「イ」には私の歌うカキアゲ語と共通する感情の置き場所が見出せた。 私は言葉の音に、佐佐木實は言葉の形に。
やはり言葉のような姿を借りてこそ表現できるのか、いや、表現せねばどうしようもないのだから言葉の力を借りるしかないじゃないか、、そんなことでいいのか?言葉ふぜいに頼ってていいのか?、、と、いつも悶々とするのだ。現時点では言葉が体の奥深くまで浸透してしまって、それらを真っ白にまっさらにして感情というものを出したいのに言葉が出てしまう悲しさ、嬉しさ、悔しさ、楽チンさ、、、。
一度手に入れてしまった言葉は大変やっかいですね、、と。
そうそう、その「やっかい」という言葉が今のところ一番妥当でしょうか。
「やっかい」とは愛おしく煩わしい感じ、言葉とは私にとってそんなだぞ、と。 kakiAgeにてコラボレーション曲「イ充つ」発売中https://www.nahoko-kakiage.com/ 佐佐木實展 イ充つ㊁ 2月18日〜28日 新潟絵屋 http://niigata-eya.jp/2394